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本多猪四郎と戦争・ゴジラ・原水爆

「101年目の本多猪四郎」特別編(上)

中島紳介

 映画監督・本多猪四郎の代表作である『ゴジラ』(1954年11月公開)が、同じ年の3月に起きた第五福竜丸の受難にヒントを得て製作されたことはよく知られている。静岡県焼津港のマグロ漁船・第五福竜丸が赤道に近い太平洋上で操業中、マーシャル群島のビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験による放射性降下物(死の灰)を浴び、23人の乗組員全員が被爆。うち一人が急性放射線障害で亡くなった。広島・長崎の惨害を経験した日本人に新たな衝撃を与え、原水爆禁止運動が高まる契機ともなった悲劇である。

 当時、インドネシアとの合作映画が頓挫して代替企画を探していた東宝の田中友幸プロデューサーは、この事件に触発されて水爆実験の影響で太古の巨大生物が甦り日本に襲来する映画≠フアイデアを思いつく。これが、かねてから本格的な特撮映画で腕を奮いたいと考えていた円谷英二のインド洋で大ダコが漁船を襲う怪物映画≠フ構想と結びつき、世界進出を意識しながら映画製作を統括していた重役・森岩雄の後押しで実現したのが『ゴジラ』だった。

 田中は幻想的・耽美的な作風の探偵小説作家・香山滋に原案【注1】を依頼。おそらく田中は、この時点では前年に製作されたアメリカ映画『原子怪獣現わる』を念頭に置いて、従来の日本映画にはない大がかりな特撮を駆使したスペクタクル作品を企図していたと思われる【注2】。ちなみに『ゴジラ』の翌月に日本公開された『原子怪獣現わる』は水爆実験でアラスカの氷河に眠っていた恐竜が目覚めニューヨークに上陸する≠ニいうストーリー。原作は幻想派のSF作家、レイ・ブラッドベリの短編『霧笛』だが、小説には水爆実験の設定はない。

 香山が書いた『G作品(内容を秘密にするための仮題)』の検討用台本は、田中、円谷のほか監督に指名された本多猪四郎、立体映画の監督経験を持つ脚本家・村田武雄らを含めた数度の打ち合わせを経て、村田・本多の共同作業でシナリオ化される。この段階で香山が描いた第五福竜丸と関連させた導入部や、古生物学者・山根博士のエキセントリックな人物像(ゴジラ可愛さの余り迎撃作戦を妨害する)、ゴジラが盛んに家畜を食い荒らしヒロインに興味を示すといった生物感のある描写などが排除され、完成した作品ではナイトシーンのの多いモノクロ映画であることも手伝って、ゴジラが単なる巨大生物ではなく、もっと得体の知れない何かのように映る。そして後のゴジラシリーズと異なり、全編に繰り広げられる夥しい死と破壊の様相……。

 それは終戦の翌年、復員してきた本多が東京への帰路で見た「墨絵のように色彩を喪った」被爆地・広島の風景につながる、ひたすら人々を押し流していく運命のようなもの──映画のつい10年ほど前に日本人誰しもが体験した戦争そのものであり、その後も現在に至るまで世界を覆っている核兵器の脅威のメタファーだったことは言うまでもない。本多はあるインタビューで『ゴジラ』には自身の戦争体験が反映されていると明言している。

 その一方で「(原案のように)現実の出来事と空想の物語をつなげるのは、かえってリアリティがなくなる」として、第五福竜丸のイメージはゴジラに沈められる冒頭シーンの漁船に、放射能に汚染されているのではと社会問題になった原子マグロ¢宸ャは新聞記事に、それぞれ投影するにとどめている。さらに撮影に入る前には「この映画は作る側が照れてしまってはいけない。まず自分たちが驚きをもって製作にあたろう」と田中や円谷と話し合ったと語っているが、これは特撮の限界、つまり作り物を使ってしか撮影できない不自由さを熟知しているからこその発言だろう。

 こうしたリアル×虚構に対するバランス感覚と真摯な映画作りの姿勢が、そのまま天才肌の技術者である円谷との絶妙なコンビネーションを生み、綿密な打ち合わせのもとに別々のスタッフが撮影した本編と特撮を組み合わせて成立する東宝のSF映画、怪獣映画における本多の独自性を支えていく。
 当初(1950年代)は特撮だけでなく恋愛映画や青春映画、メロドラマに人情喜劇、ホームドラマ、サラリーマンものと様々なジャンルの作品を量産した本多が、60年代には堅実なヒットが見込まれ海外にも輸出できるSF・怪獣映画の専従監督のようになり、作品数も年間1〜2本程度に減るが、反面その演出は研ぎ澄まされ『モスラ』『妖星ゴラス』『キングコング対ゴジラ』といった大作や、世界中でカルトな人気をもつ『ガス人間第1号』『マタンゴ』のような異色作を次々と誕生させる。

 それらの作品を見ると、たとえば『ゴジラ』や『地球防衛軍』の頃にはまだ世界に誇る円谷特撮の陰に隠れがちだった本多の演出力が、より前面に出て大きく花開いたという印象が強い。監督として10年の経験と、年齢的にも50代を迎えて力量が円熟してきたゆえ……と単純に考えていた筆者は、最近になって本多が遺した日記のある記述に出会い、文字通り驚愕した。
 1960年の心覚えを綴ったその大学ノートには、次回作『地球大改造』(2年後に公開された『妖星ゴラス』のもとになった企画)の打ち合わせで、田中プロデューサーから「あなたの演出はおとなしすぎるという意見が多く【注3】、この作品の監督を任せるについても強い抵抗があった。その辺を十分に考えて返事をしてもらいたい。どうしても、そういう演出が出来ないというなら断ってくれていい。前々からそういう意見があって、私もそれには同感だ」と、暗に辞退を勧められたことが記されている。
 さらに「この種のものには向かない。女性映画を手がけた方が良いのではないか。これは黒さんも同意見だった」と重ねて言われ、親友の黒澤明から「どんなに良い作品を作っても特撮、特撮と言われるだけで監督としてはつまらないよ。それは君のものではない」と忠告されたことを思い出して付け加えている。

 この日の記述には他にも注目すべき箇所が多く、煩雑になるので引用は省くが、要するに今も昔も特撮映画に付きものの「特撮はいいが本編の演出が云々」という批評や、地方の映画館主の反応などから本多を特撮路線から(それも本人の判断という形で)外そうという動きがあったことがわかる。
 1960年といえば『ゴジラ』以来の特撮路線がカラー化(空の大怪獣ラドン)、ワイドスクリーン化(地球防衛軍)と続いて軌道に乗り、東宝オールスターの神話ファンタジー『日本誕生』やSFスリラー『電送人間』、戦記大作『太平洋の嵐』といった本多以外の監督による作品も増えてバリエーションが広がった時期だ。『大怪獣バラン』が当初アメリカのテレビ映画用に製作されたことからもわかるように、先頭に立って東宝特撮を牽引してきた本多=円谷のコンビは海外でも信用があった。にもかかわらず、である。

 本多は続けて、自分の演出の弱さを認めつつ、作品に対して誠実に取り組み、特撮を活かすための作り方を心がけてきたと書き、当たる(ヒットする)映画を作ってきたという自負から「演出とは難しいものだ。人間関係も!!」と悔しさをにじませながらも「特撮ものはこれを最後とすべきだろう」「この作品だけは大いに打ち込んでみよう」と決意を新たにしている。
 本多はこの後もアメリカのコロムビア映画配給で世界同時公開を謳った『モスラ』や、観客動員1000万人を記録した日本映画最大級のヒット作『キングコング対ゴジラ』など東宝特撮映画のエース監督として活躍するが、この1960年を境にして本多の監督作が一気に減少したのはなぜか。そして、会社側から特撮映画に向いていないと判断されながら、しかも1965年には他の監督に先駆けて専属契約を切られながら、どうして、その後も看板シリーズのゴジラ映画や興行的に重要な日米合作の怪獣映画を撮り続けることが出来たのか……。先のノートの記述に、その謎を解く鍵が隠されているような気がする。(つづく)

*注1 映画用に書かれたプロット台本。クレジットは原作となっているが、すでに刊行・発表された小説の場合と区別した。
*注2 田中本人はこの作品を知らなかったと発言したことがあるが、あの敏腕プロデューサーが意識していなかったとは考えにくい。
*注3 地方の映画館主から手紙で寄せられた意見だという。
 
2016.11.17
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