2009年本多宣言 Messages へ
竹内博


 昭和29年(1954)の第一作目の『ゴジラ』は、ゴジラ誕生20年として、昭和49年の11月、「SF映画ともの会」に依って、世田谷砧区民会館の「第2回SFショー」で上映されている。
 その時に、『ゴジラ』の35m/m、全10巻のフィルムを、東宝撮影所から借用し、会場へ運んだのは私だった。
 あの、重い(10キロ以上あった)ものを、よくぞ、と思うが、誰かに手伝ってもらったのかも知れない。その辺の記憶は残っていない。
 行きはともかく、帰りはタクシーで円谷プロまで運んだ(当時、私は円谷プロに住み込んでいた)。
 私は、『ゴジラ』のフィルムを、この手で、目で一コマ一コマ確認出来る千載一遇のこのチャンスを利用し、1巻1巻をムヴィオラ(編集用の機械)にかけ、総カット数を記録する心算で、カット割りをMEMOした。拙い絵も描いた。
 徹夜で作業したが、カット割りは、ゴジラが東京を蹂躙し、隅田川に逃れ、ジェット機の攻撃を受ける辺りで、頓挫した。何しろナイト・シーンでカッティングも多く、フィルムを見てもよく判らない。
 目がショボショボし、意識が朦朧としてきたので、今はこれまでにしようと思い、朝の9時頃に作業を中止し、フィルムを東宝撮影所に返却しに行った。一晩では、これが限界である。
 今、考えてみると、円谷英二の特撮シーンだけをMEMOしておいても良かったのだが、特撮映画は、特撮シーンを観ていても愉しいが、本編(ドラマ部分)との有機的な結合の成果によって、その正否が判断されるのだから、欲張って、特撮・本編と、克明にノートをとった。
 私は『ゴジラ』の円谷特撮も大好きだが、本多猪四郎監督の静謐な構成、誠実な演出力も、好むものである。ドキュメンタリーの様な重厚なドラマと、特撮の、優れた混淆と調和を観るのは快感だ。
 両者のフィルムの繋ぎ込みは、どちらがリードしたのか、今となっては判らない。
 本多猪四郎監督の丁寧なドラマ作りに、円谷英二は「よしっ!」と張り切ったに違いない。
 云ってみれば『ゴジラ』は合作であるが、これは本多監督の作品であると断言して良いと思うのだが、どうだろうか。
 この問題は、実を云うと、考え始めるとキリが無い。原作の香山滋、製作の田中友幸、音楽の伊福部昭、特撮の向山宏、岸田九一郎、渡辺明等々、ベスト・スタッフが衆知を結集し、凝りに凝って製作した作品なのだから。
 以前、私は『ゴジラ』に関する論考で、『ゴジラ』はジグソー・パズルのようなもので、何一つ、誰一人欠けても作れなかったと書いた。この考えは、今でも変わらない。
 従って、誰に肩入れしても構わない、実に不思議な作品である。
 しかし、どうも扇の要は、本多猪四郎監督にあると、最近では思うようになっている。
 その謦咳に接し、その温顔を想いだすと、何だか胸の中が温かくなってくる。
 この、世界の映画監督・本多猪四郎と同時代に生き、ある程度その作品をオン・タイムに観れた至福を、私は誇りに思っている。

 さて、『ゴジラ』だ。その後、『ゴジラ』の16m/mフィルムを円谷プロが何かで借用した時、数回くり返して観たものだ。
 そのうち、『ゴジラ』のフィルム・ストーリーを徳間書店がムック・スタイルで出版(構成は池田憲章)、私はこの時は体調を崩しており、大して協力出来なかった。
 また何年か経ち、東宝の事業部出版による「東宝SF特撮映画シリーズ」で、『ゴジラ』をとりあげ、幸いにも編集に参加出来た。罰が当たるのは承知の上で、『ゴジラ』の35m/mフィルムを直接ちょん切って、フィルム・ストーリーを構成した(『ゴジラの逆襲』『大怪獣バラン』も収録)。
 この3本立てには、参っただろうと思われる方も居られるかも知れないが、私は嬉々として構成した。フィルムから写真を起こすのは私の大好きな事でもあったから。
 今、思うと、やはり『ゴジラ』の完全版のフィルム・ストーリーブックを作りたいと思う。あの、リブロポートの小津安二郎監督の『東京物語』のような。
 小学生の時に第一次怪獣ブームになり、夢中になっていたが、確か昭和41年頃、NHKで放送された『ゴジラ』に、私は感動以上のものを、覚えた。
 テレビ放送された映画の中で、他に感激したのは、中学一年生の冬にNHK教育テレビで放送したエイゼンシュテインの『イワン雷帝』だけだ。あとは、お呼びでない。
 『ゴジラ』と『イワン雷帝』に共通項は無いようだが、実は二つだけある。その様式美がオーバーラップするような事と、両作とも監督の、映画作家としての気迫と情熱がストレートに伝わってくる点だ。
 『イワン雷帝』は随分と長い作品で、3時間ほどはあったと思うが、その間、目が離せない。トイレも我慢したほどだった。
 かと云って、私はエイゼンシュテインに向かって行かなかったが。
 さて、私は『ゴジラ』のテレビ放送で、本多猪四郎監督の名前を再認識(それ迄の怪獣映画のパンフレットで、名前は知っていた)したのではないだろうか。
 その後、『ゴジラ』が東宝で貸し止めになっていた時に、仕事の参考上映という形で、二度ほど、こっそり観るチャンスに恵まれた。新宿の太平スタジオの時は、成城まで本多監督を迎えに行った記憶がある。この時に、『日本誕生』も上映し、同人誌仲間だった故富沢雅彦君がその素朴さを観て非常に喜んでいた。
 銀座の小さなビルで『ゴジラ』を観た時は、特撮美術の渡辺明さんが来て下さった。『ゴジラ』に関しては、色々と想い出が多い。
 『ゴジラ』だけで一冊の本を書きたい位だが、昭和62年にある出版社からそれを依頼された。だが、当時の私には、そんな実力も気力も無く、話は立ち消えになった。今の私には、書くだけの力は備わっていると思うし、その自信もある。
 問題は、私の体力と、時間である。書くとすれば相当量のエネルギイを要するし、また調査には時間がかかる。
 かつて、実業之日本社刊「円谷英二の映像世界」で、「『ゴジラ』の誕生」を書いた。400字50枚の作品で、これ以上の長さ(私の一番長い作品は「香山滋書誌」で、400字200枚)となると、よほど慎重にかからねばならない。
 私が、何故一作目の『ゴジラ』が好きなのか、口でも筆でも旨く表現出来ない。一種の恋愛感情に近いもので、とにかく一目惚れだ。
 ゴジラ本も様々なものを編集し、スタッフの顕彰に尽力したが、まだまだやり足りぬ思いがする。
 『ゴジラ』の映画は、ビデオテープになり、DVD、やがてブルーレイにもなるだろうし、かつて夢だった映画作品を自分で所有出来る時代になった。
 これ以上、何を望むのかと云われるのも無理もないが、私としてはまだ、もの足りない。最大のターゲットは本多猪四郎なのではあるまいか。
 先に構成・編集した「本多猪四郎全仕事」は、私なりの中間報告であり、これは決算ではない。これから本多研究に向かって第一歩を踏み出し、ロック・オンした事に他ならない。
 問題は、これからである。本多監督という予想以上の大物は、我々の手に負えるだろうか。一人の力では無理な事は判っているが、出来るだけ対応して行きたい。
 また、人知を集めればこそ、出来る事もある。このホームページが良い例だ。
 私は、今後『ゴジラ』を、本多猪四郎監督を、更に本格的に研究し、人間が一番関心を寄せる情報は人間なのであると云う事実を踏まえた上で、本多研究をスタートさせる事を宣言する。


2009.6.20
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