本多監督の思い出 Messages へ
 本多監督に初めてお会いしたのは、1981年の夏に開催された「第1回アマチュア連合特撮大会」の会場だった。スタッフの末席にいた私は、トークショー出演のために来場された監督を控え室でお迎えし、パンフレットに同じくゲストの平田昭彦氏と並べてサインしていただくという、夢のような体験をさせてもらった。

 その場では緊張してほとんどお話もできず、客席からトークショーを拝見し、お帰りになる監督を出口までお送りしただけだったが、1984年になって竹内博さんが雑誌「宇宙船」に連載したロング・インタビューの取材に同行する機会があり、ご自宅に伺ったのが2度目になる。この時、奥様がお茶受けに「濡れ甘納豆」を出してくださったのに、私たちは食べ方が判らなくて戸惑い、お二人に笑われてしまったことを懐かしく思い出す。

 それ以来、何度か取材で、あるいは友人たちと共にプライベートでもお邪魔するようになったが、確か、ご自宅の裏手にある黒澤明監督も常連だったというゴルフ場のラウンジでインタビューさせていただいたこともある。

 その日は「フランケンシュタイン」二部作や「キングコングの逆襲」に関する質問がメインで、シーンごとに変わるマダム・ピラニアの衣裳が、柳生悦子さん(60年代東宝映画の都会感覚を支えた衣裳デザイナー)の手によるものだと教えていただいたり、いろいろと興味深いお話が聞けた。そこで私は、以前から仲間内で話題になっていたある仮説を監督にぶつけてみた。
「マダム・ピラニアの母国は、劇中では東南アジア某国となっていますが、本当は核武装をめざす日本を想定していたのではないですか?」

 これは映画の文脈からすれば多少こじつけ的ではあるものの、特撮評論家・池田憲章氏の「マタンゴの笑い声は、実は(変身してしまった人間たちの)泣き声ではないのか?」という意見と並んで、メカデザイナーの出渕裕氏が当時主張していた特撮映画ファンならではの卓見であった(その理由として、コングが東京に上陸した時点で被害の拡大を心配し、完全に計画を放棄している点が挙げられる)。

 現在なら当然、北のあの国を指すであろうし、あるいは脚本の馬淵薫(=木村武)はすでに半島の某国や日本の再軍備を意識していたのかもしれないが、この質問に対する監督の答えは、そうした政治的深読みをあっさりと否定するものだった。
「その考え方は面白いけど、僕らはあくまで架空の国として描いたんですよ。どんなに貧しくて小さな国でも、原水爆を手に入れさえすれば世界中をおびやかすことができる。それが核兵器というものの恐ろしさなんです」

 この監督のニュートラルな思考は一貫していて、その後の10年近いおつきあいの中でも、いっこうにブレることはなかった。時にネットの世界では「本多猪四郎はマニアの意見に乗せられて、ゴジラに原水爆反対のテーマをこめたと言っているだけだ」という悪意に満ちた風説も見受けられる。しかし、当サイトの「監督エッセイ」のコーナーに掲載されている古い文章を読んでも判るように、それは監督の生涯変わらぬ持論だったのだ。

 そして、もうひとつ。私が強い印象を受けた監督の言葉がある。これも「ガス人間第1号」に関するインタビューの中での発言で、ラストシーンで大爆発のために瀕死となったガス人間がホールの外に出てくると、その上に花輪が倒れ落ちてくる演出について。
「監督、これは明らかに悲劇的な最後を遂げたガス人間に対する鎮魂の花束ですよね!」と、勢い込んで質問するこちらの評論家的決めつけをかわすかのように、監督はあの温かな微笑みを浮かべてこうおっしゃったのである。
「いや、やっぱり映画はきれいに終わった方がいいからね」

 ボロボロに焼けこげたガス人間を隠すためだけに、わざわざ花輪をかぶせたというのか……そんなはずはない!とあなたは思うだろう。私もそう考える。しかし「サンダ対ガイラ」で、ガイラに喰われてしまった女性の血を赤い花束に象徴させた本多監督のこと。その方がきっと自然であって、過剰な思い入れやテーマ性は必要なかったのではないか。

 もちろん、そうした賛辞に対する照れもあったに違いない。しかし、常に「荒唐無稽なお子様ランチ」などという偏見の中で怪獣映画を作り続けた人間として、本多監督が最後のよりどころとしたのは、テーマやテクニックではなく、作品と真摯に向き合う自分の良心だったはずである。その意味において、私にとって本多猪四郎とは、永遠に“映画と観客に誠実であり続けた映画監督”なのである。
2007年7月11日
中島 紳介
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