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無冠の巨匠 本多猪四郎(第八回)

ゴジラと『青い真珠』

(「宝島30」1994年3月号掲載)

 『バットマン』(91)シリーズの監督ティム・バートン(58年生)は、少年時代からのゴジラ・ファンである。製作が報じられているハリウッド版『ゴジラ』の監督は、残念ながら彼ではないようだ(※註・本稿執筆の94年の時点)が、来日時には東宝を訪れ、自らを売り込んだといわれている。
 彼以外にも、ジョン・ランディスやスピルバーグなど、ベビーブーマー以降のアメリカ映画人には熱烈なゴジラ・ファンが多い。彼らに共通する幼児期の原風景は、均質的な郊外の新興住宅地であり、そこに入り込んできたテレビだった。テレビは家族間のコミュニケーションを断絶させ、その代わりに子ども部屋の少年たちのイマジネーションを異様に増幅させた。とりわけホラーやSF、そして本多猪四郎監督のゴジラ映画は彼らをテレビに釘付けにした。
 本稿前半では、本多監督が「会社から与えられた企画をそつなくこなすだけの職人」と決めつけられている現状に異を唱えた。本多作品は、東宝が看板としていた宝田明や高島忠夫のような、恋や青春を自由に謳歌する戦後的なスターを主役としながらも、監督の視点は、脇役である青白い科学者や過去の亡霊たる軍人へと注がれていく。それが本多猪四郎という<作家>の視線なのだ――と。
 彼の作品で育ったティム・バートンも、『ピーウィーの大冒険』(85)『シザーハンズ』(92)などで、自らの幼児性を奇形性(怪物性)として描きながら、カッコイイ男性が美女を守る<ヒーローもの>をより明快に否定し続けている。
 ティム・バートンは、いつも作品の中で、明るい若者たちが青春を謳歌する<クリスマス>への怨念をぶつけてみせる。本多作品にも、クリスマスが出てくる映画がある。製作当時から二十年後の未来、つまり一九八〇年代を舞台にした『妖星ゴラス』(62)だ。
 冒頭、土星の観測船『隼号』が、地球に向かって直進してくる黒色矮星・ゴラスに遭遇する。隼号の艇長は、前回の原稿で触れた『海底軍艦』(63)で、敗戦後もなお大日本帝国軍を名乗り続ける戦艦「轟天」の艦長・神宮司大佐も演じる田崎潤がつとめている。隼号はゴラスの引力圏に捕まってしまう。死を覚悟する艇長。
「地球からの観測は間違っている。今、太陽系を撹乱するこの星の正体を突き止められるのは我々をおいて他にはない。最後まで観測を続け、その結果を報告するんだ」
 観測結果を報告し終わって、最期の瞬間、部下の一人が感極まり「バンザーイ!」と両手を挙げる。唱和する艇内の一同。艇長の目から一筋の涙が……。自分たちの行動はきっと感謝されるだろうことを信じて玉砕する隼号。
 すると、本多監督はその次のカットに、彼らの静かな死を突き破るような大音響で、クリスマスのバカ騒ぎに浮かれる八〇年代の若者たちをつなげるのだ。
 やがて映画は国会の与党幹部の会議に移る。任務を逸脱して玉砕した隼号を英雄視するのは、野党もうるさいし、慎重にしなければ、という話になる。彼ら為政者たちが隼号の功績を認め始めるのは、<地球の危機を教えてくれた>と、各国からの感謝の電報が届いてからである。
 しかし、殉職者たちへの無理解をものともせず、宇宙へ夢を馳せる若者たちがいた。八〇年代には、宇宙旅行はもう当たり前で、宇宙飛行士も英雄ではなく、「タクシーの運ちゃん」くらいにしか思われていない。それでも血気盛んな彼らは酒場を占拠して、肩を組んでこんな歌を歌う。

 ♪せまい地球にゃ未練はないさ
 未知の世界に夢がある夢がある
 広い宇宙は俺のもの俺のもの
 はばたき行こう空の果て
 でっかい希望だあこがれだ

 迷惑そうな顔をする他の客。
 彼ら技術者と、それを指導する科学者たちの活躍でゴラスと地球との衝突は回避される。しかし引力圏にかすったために全世界に天変地異が起こり東京は水没してしまう。東京タワーの上から水没した都市を見下ろす宇宙パイロットの一人は「こんど造る東京はきちんと都市計画を立てて」建設すべきだと言う。戦後の無秩序な都市文化は水没し、今度は科学者と技術者が新しい時代を建て直すのだ。
 僕も『妖星ゴラス』は、中学のころ、テレビで観たクチだ。受験勉強などで、わけもなく社会への不満を鬱積させていた頃、水没した都市の水平線に「終」の文字が出るラストシーンは、本当に晴れ晴れとしたカタルシスを与えてくれた。
 「外国から来て、初めて主人と会った人なんてびっくりしてね。地球を破壊したり、怪獣が暴れたりする映画を撮る人間だから、さぞごっつい怖い人だと思ってたって言ってましたよ。私もときどき顔をまじまじと覗いて、でも主人の顔は本当におだやかで、どうしてこんな顔の人の中に怪獣や戦争のね、すさまじいイメージがあるんだろうなんて思うときもあるぐらいでね」(本多夫人・きみさん談)

■人間ゴジラ

 『悪魔のいけにえ』などで知られるホラー映画監督トビー・フーパー(43年生)も熱狂的なゴジラ・ファンだ。来日したときなど、インタビュアーからプレゼントされた怪獣のソフト人形を夢中になっていじくり回し、質問を聞きのがすほどだったという。
 フーパーがオリジナル・ストーリーを書いた『スポンティニアス・コンバッション』(90)は、彼の中に生き続けているゴジラのイメージを具象化したような映画だった。
 物語はアメリカでゴジラが公開された頃、五五年に始まる。この年はまた、アメリカが広島に原爆を落としてから十年目でもあった。ネバダ砂漠の核実験場で地下シェルターの安全性の実験台に選ばれた夫婦がいた。いつもおびえたような笑みを絶やさない小心者の二人は、核実験の炎を浴びるが無傷でシェルターから解放される。だが、放射能で体質が変化していた夫婦は、突然体内から発火し、全身炎に包まれる。夫婦はたがいに抱き合って、せめてものお互いの絆を確かめ合って死んでいく。
 そして、彼らの間に生まれていた子どもが成人して現代の物語になる。孤児として育った彼――サムは、ちょっと内向的で神経質な若者だが、自分を理解してくれる恋人と共に平和な日常を送っていた。だがやがて彼は、怒りを感じると物凄い炎を吹き出すようになる。そして、自分には父母がいて、彼らを犠牲にしたネバダ砂漠の実験は失敗ではなく、自分のような<人間核兵器>を作るのが目的だったことを知っていく。しかも唯一信じていた恋人も、実は実験の黒幕から遣わされた監視人なのだった。
 己の運命を呪ったサムは、<みんな滅んでしまえ!>とばかりに自らの身体から放電を逆流させ、黒幕のいる原子力発電所を破壊する。サムはついに炎の塊となり、自分を騙していた恋人と共に燃え尽きようとするが、土壇場になって彼女を解放し、独り、地の底へとメルトダウンしていく。
 放射能によって<人間ゴジラ>となる主人公。炎を吐くときに背中に走る電光、両親の死体を凝視して「天からの火が今日ここに届いたのだ」とつぶやく科学者が隻眼であること――などなど、一目見ただけで『ゴジラ』からの引用がわかるが、それ以上にもっと本質的な部分で、この映画は、本多監督が描き続けてきた「物語」を受け継いでいる。
 それは、<現代社会からゆきはぐれてしまった人間>が、<閉じた自意識の内にこもり>、<異性への思いを抱きながらも、それを拒絶してしまい>、最終的には<自己犠牲、もしくは、はぐれ者どうしの心中という形で自分に決着をつける>という物語である。誰の脚本であろうと、怪獣が出ようと出まいと、本多監督の映画は皆、この物語のバリエーションにすぎないのだ。
 それを具体的に検証するには、やはり一作目の『ゴジラ』を見ていくべきだろう。ここには本多作品の「物語」の最も基本的な形が描かれている。

切通理作

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