無冠の巨匠 本多猪四郎(第六回) Messages へ
 ■ 戦後を知らない男

 昭和三八年の『海底軍艦』は、本多さんの世代が持つ「科学」と「戦争」へのアンビバレントな思いが集約された一編だ。
 そもそも『海底軍艦』の原作は日露戦争直前に押川春浪が書いた軍国科学小説で、東亜を支配する白人と闘うために大日本帝国が巨大戦艦を開発するというもの。
 映画では原作の設定を奇妙な形でひっくり返している。
 上原謙演じる楠見は、戦時中、大日本帝国海軍技術少将、艦政本部の特別設計班班長であったが、今は光国海運の重役になっている。だが、娘として育てている神宮寺真琴(藤山曜子)の周囲につきまとう男が、自らを八千五百六十一と数字で名乗っていると知り、それが日本海軍の認識票の番号であり、同時に靖国神社の予約番号でもあることを見抜く。男は戦後の今でも大日本帝国の一等兵曹であり続けており、真琴の父である神宮司大佐の部下だと語る。
 敗戦の際、楠見の片腕だった神宮司大佐(田崎潤)は、無条件降伏を潔しとせず、彼を信奉する部下とともに、特殊潜水艦イ号四〇三に乗り込み、独断で出撃した。謎の島に流れ着いた神宮司大佐は、島にある黄鉄鋼、ボーキサイト、マンガンといった資源を利用し、「土民」を使役して、陸・海・空を制覇する完全無敵の海底軍艦・轟天号を開発し、連合軍への反撃に備える。
 脚本を書いた関沢新一さん(大正九年生まれ)は鉄道マニアの世界では天皇と呼ばれている人だが、戦時中はラバウルにいて、ソロモンの日本兵がスクラップになった飛行機の寄せ集めだけで偵察機を造ったという事実を聞いて興奮したという。鉄道と航空機へのマニアックな気質は航空学校出身の円谷英二特技監督(明治三四年生まれ)とも共通している。戦前の科学少年の世代がタッグを組んで作っていたのが、この作品を代表とする東宝特撮の世界なのだ。
 楠見は、あの戦争を反省し、平和な戦後社会の維持に務めている。だが、突然の「戦前」からの訪問者に当惑しながらも、自分を「少将」と慕う神宮司の部下と出会うたびに頬がほころび、少年のようにいきいきとしてくる。この辺の演技のつけ方は興味深い。
 だが、戦争を自らの中で清算し、「大人」になってしまった楠見は、未だに日本が戦争放棄を宣言したことを認めたがらない「軍国少年」神宮司たちと断絶するしかない。
 神宮司は、楠見が戦争のことを「古傷」と言っていることを責める。
 本多監督は鳴海さんたちのインタビューに応えて、楠見は自分の分身だとはっきり言っている。
「世界の状況なり何なりで、『あの行動は間違っていた』と言われても、しかし、自分が一生懸命やったということに対する自負心と、それが間違っていたとはとても思えない人間性というもの。これは僕はわかるんですよ。僕だって、あの戦争へ行ってね、八年間近くも戦争へ行った人間だから……」(本多監督談)。
 一方、大昔に太平洋に沈んだ「ムウ帝国」なるものが突如全世界に対して宣戦を布告する。
 かつて全世界を植民地としていたと主張し、その失われた領土を奪い返すのだと言うムウ帝国は、轟天号でかつての日本の領土を奪還しようとする神宮司と重なり、さらにはアジアを欧米の手から取り戻すのだとして大東亜戦争を始めた大日本帝国を思わせる。
「八紘一宇ってのは元々、自分たちが同じ立場で、同じように平和でなくちゃいけないんであってね、日本だけがその家長だ、という考え方が捨てられなかった人が、やっぱり神宮司大佐になっちゃうんでね」(本多監督談)。
 しかし、娘との十数年ぶりの再会で、戦後の自分が過去の亡霊でしかないと知った神宮司は大日本帝国再興の夢を捨て、ムウ帝国と戦うことを決意。
 彼は轟天号で、ムウ帝国の女王を生け捕りにする。
 女王は気高い処女だが、自国の科学力の絶大さを疑わぬあまり、軍事機密まで自慢気に話してしまう。すでに大東亜共栄圏の夢をあきらめた神宮司の目には彼女は無邪気な夢を信じる子どものようにしか見えない。
 まさにムウの女王は、神宮司の双生児なのだ。彼らは戦後の日本にさまよい出てしまった戦前人である。
 そして、それは本多監督自身の姿と無縁ではない。僕は奥さんから興味深い話を聞いた。
「主人が帰ってきたばかりのときね。私たちがヤミで食べてる(闇米・闇市)なんて言っても、あの人は何もわからない。戦争が終わって一年たった後、突然帰ってきた人にね、日本のものすっごいあの転換期の、ああいう状況はなかなかのみこめないわけですね」
 本多さんはまさに浦島状態、神宮司状態だったのだ。そしてなんと、彼はそれからずっと戦後の現実生活に触れることのないままだったという。
「この人にはすべてのことはかわいそうだから言うまいと。そうしたのが大間違いで、一生最後まであの人はなんにも知らずに逝っちゃいました。銀行も行ったことありません。郵便局もドアの中には入ったことないし。お金のことも一切やらずにとうとう八一歳までそれで過ぎてしまいましたけどね。子どもの話も全部聞けば答えるだけで、学校どこ入ったかも知らなくてね。入ってから『成城学園入れました』『ああ、そうか』と」
 戦争で死んだとも思われていたが生きて帰った本多さんは、戦後の「現実」をついに生きることがなかったとも言える。彼にとっての「現実」とは、戦争と映画の中にしかなかったのだろうか。



切通理作