無冠の巨匠 本多猪四郎(第三回) Messages へ
 ■ 戻ってきた男

 「一年の内に何回かは夢でうなされてました。本当に大変なうなされ方でした。それは全部軍隊ですね。銃の引き金を引く瞬間の思いとか、自分が原爆のボタンを押す当番になって、秒読みが始まった瞬間の夢なんです。やっぱり戦争の体験が年中頭にこびりついていたでしょうね、きっと。それは、あの特撮映画の中にも充分にあるんじゃないでしょうかね」
 亡き本多猪四郎監督について夫人のキミさんはそう語る。
 「満州事変から終戦になって翌年に捕虜になったから。全部やったわけ、あの戦争は。現役が満州でしょ。第一回目の召集が北支。第二回が中支。最後の召集のときは本当は南方に行くはずだったみたいですよ。結婚して、私が臨月のときに最初の召集令状が来たわけです。それで出征して、二年か三年かな、帰ってきまして、それで一年ぐらい内地にいて、次の子どもが生まれる頃、また行っちゃったんですね」
 それだけ繰り返し戦場に送られたのは、現役のときにいた一連隊が二・二六事件の決起部隊だったからだ。もちろん本多さんは決起には参加していない。参加した人間はほとんど銃殺されたのだ。
 本多さんと生前親しかった作家の鳴海丈さんでも、戦争体験については、ちょっと立ち入れないものを感じたという。
 「本多さんみたいな大学出の人が最前線に送られ続けた。しかも向うで抑留されてたってことはやっぱりどれだけ陸軍の中でひどいめにあったかってことですよ。内務班については言ってました。陸軍残酷物語、いわゆる古参兵のリンチ、あれがいちばん良くないと。監督は『ゴジラ』以降は戦争映画撮ってないです。東宝の8・15シリーズなんかもやってないし。依頼されても断ったって言ってました。本多監督に聞いてみたことがあるんです。既成の映画で本当にリアルに戦争を描いたものってありますかって。そしたら『一本もない』って。『戦争なんてのは、映画で描けるようなもんじゃない。もっとすごいものだ。それはとても映画としては描くことはできないと」
 満州にとばされて、八年も九年もさまよった軍隊生活。
 「主人が戦地から戻ったのは終戦の翌年の三月頃だと思います。それまで二年以上も生死不明でした。待つというのは本当に嫌なことだなあと。死んじゃったほうがあきらめがつくかなあって。言葉で言うと残酷ですけれども、その間は非常につらかったですねえ。でも生きてんだか死んでんだかわかんないものは、とにかく待つっきりないんだと」
 撮影所のスクリプターだったキミさんの快活な性格に惹かれてか、本多さんを待ち続ける彼女を、撮影所の人々が入れ替わり立ち替わり訪ね、励ましたという。
 特撮映画には、本多監督が担当すると、映画そのものの雰囲気はコミカルでも、必ず『ゴジラ』一作目譲りの、戦時下に引き戻されたような瞬間がある。
 コメディ仕立ての『キングコング対ゴジラ』(昭和三七年)でも、ゴジラ出現によって行き違いになり、災厄の中で引き裂かれる若い男女の姿が切実に描かれる。
 そこで、災厄から戻ってきた男を幽霊だと思って一瞬絶句する近所の人間の描写があるが、これはどうやら本多さん自身の体験らしい。
「その晩もいつものようにご飯を食べて、子どもたちと茶の間でギャーギャー騒いでてね。昔の家ですから玄関があって畳があって、廊下がこう、あるような家ですが、誰かが、ガラガラッと玄関開けたんですね。ご近所の鰹節問屋のご主人で、成城に疎開していた方がいたいんです。その方が何か食べ物が手に入ると帰りがけに、うちに置いてってくれるんですね。またそのおじちゃんが何か置いてってくれたんだと思って、子どもたちがガーッと玄関に出て行ったんですね。ところがそのまま音も何もしない。行ってみたら、子どもは二人ともただ立ってたですね。そしたら玄関の向こうに軍服を着た男が一人……」
 それは捕虜生活でガリガリに痩せ、まだ三十代なのに髪の毛が真っ白になった本多さんの姿だった。
「何も声が出なかったですね。そしたら主人がニコッと笑って。『アッ』とそのとき体中に寒けがしました。生きてたか死んでたかわかんない人が何の前ぶれもなしですから、あの頃は。子どもは怖がって近づきませんでした」
 それから一週間、本多さんは長年の疲れと安心からか、高熱を発しながら眠り続けたという。
「主人とは助監督仲間で、晩年も一緒にお仕事した黒澤明さんの『夢』という映画に、軍隊の亡霊が出てくるトンネルのシーンがあるんです。あれなんか私はウアーと思いました。主人の夢ではないかと思ったぐらいで。一年に何べんかは軍隊の夢が、死んじゃったはずの仲間が出てきたり、隣の人が死んだり……。でも長い夫婦生活で、その話を直接することはあまりありませんでしたね」
 長い空白期間は、本多さんを撮影所のエリートコースからも外していく。
大監督・山本嘉次郎の直弟子の助監督だった本多さんは、谷口千吉、黒沢明とともに三羽ガラスと呼ばれていた。だが彼が戦地に行っている間に他の二人は既にデビューしていた。
「戦後、彼が撮影所に初めて行ったんです。きっと、心弾んで行ったんだと思うんですよ。そしたら裏門で『ちょっと待て』って止められて。『あんたは誰だ』って。それはもうすごいショックだったらしいですね」



切通理作