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本多猪四郎監督エッセイ

「野良犬」の思い出

「野良犬」レーザーディスク解説書より


 今回『野良犬』が新しくハイビジョンの鮮明な画像の、レーザーディスクとして、発売される事になった。索晴らしい事である。世界でも注目された、日本映画の名作が続々と新しい技術で新しい製品として、若い映像愛好者に観賞され将来の日本映画発展の資料になれば誠に喜ばしいことである。

『野良犬』は、今から44年前 ──太平洋戦争が終って四年目、昭和24午11月に封切られた。そして画面に出て来る大衆の姿は、当時の都会生活者の姿そのものである。戦後生活の貧しさのどん底時代だ。当時、大きな駅の周辺には何処にも、「闇市」と称する市場が出現、人々は食べものを求め、衣類を求め、職を求め、ゴッた返えしていた。最も有名なのは新橋の西口、新宿の東口、池袋の北口、上野駅のアメヤ横丁であった。今でもその名の残っているのが、上野のアメ横である。

 『野良犬』の主人公、三船君の扮する軍隊服の刑事が盗まれた自分の拳銃を必死の形相で探し廻る市場が「闇市」だ。
闇市とは、物価を安定させる為に政府が配給する以外に勝手に売買してはいけない品物を取引する市場と云う意味で闇市と云った。
其処では禁制品の米でも砂糖でも、酒でもビールでも何んでも闇の値段で手に入った。人々は生きる為には法を犯してでも、闇市を利用しなければならなかった。
上野のアメヤ横丁は、あそこへ行けばアメが買える、甘い物が手に入ると云うところからアメヤ横丁、と云う説と、アメリカ製品が手に入ると云う意味のアメ横の二説があった。どっちも本当だろう。始めのうちはアメリカ軍の横流し製品は、煙草、キャンディー、チョコレート、ウイスキーが主であったが次第に軍服、軍帽、軍靴、はては、拳銃まで出廻っていると云う噂が流れた程である。

 撮影は当時大泉スタジオと云った、現束映東京撮影所スタジオで開始した。スタッフ全員、寮に泊り込みであった。食糧事情、通勤事情が自宅からは通いきれなかった時代だ。復員したばかりの私は、久しぶりにチーフ助監督として現場に復帰していた。

 三船刑事の顔の判かるカットは、大オープンセットで撮影した。何しろ雨の日も風の日も、昼夜、手掛りを求めて探し廻る内容なので美術は飾り替え飾り替え大変であった。
 勿論セットはオープンだけではない、探し廻る行く先々、料理屋、山谷のドヤ街、安宿、ホテル等々大方(おおかた)セットだ。美術の村木君は『野良犬』では30種以上セットを建てたと、つくづく述懐する。

 ロケとオープンセットだけでは現実の雰囲気が足りないと云うので、実際の闇市を撮ることになり、カメラの山田一夫君と私と二人で上野の西郷さんの前、山下通り、そして本当のアメヤ横丁にカメラを持ち込もうと云う事になった。闇市には假令(たとえ)、ニュース映画でも這入れなかった。映画に撮られたら退引(のっぴ)きならない証拠になるからだ。禁制品の取り引きは取締法違犯で刑務所入りを覚悟しなければならない。

 三船刑事の"吹き替え(代役)"の私が復員軍人姿で群衆の中を歩き廻る。その後姿を手持ちカメラのアイモを何気ない箱の包みに入れて山田一夫君が撮影し乍(なが)らついて来る。上野松阪屋方向から入って五、六カットは何事もなく旨くいった。併(しか)し、次のポジションを打ち合せして、山下公園から横丁へ這入ろうとした時「来た来た」と云う呼び声と同時に私の前に一人の男が立ちはだかった。サッと片肌脱ぐと、「一心、不動明王」の彫物の腕を突き出した。どうも、来た来たと叫んだ少年が私と山田君の次のポジションの打合せを見ていたらしいのだ。アッと云う間に、撮影隊が来たと触れこみ乍ら松阪屋の方へ走って行った。併し、話せば怖い男でも何んでもなかった。生きる為に必死だとも云った。昼食の辮当を分けて渡したら、「銀シャリだ!!銀シャリだ!!」と感激した。翌日からは何も云わずに協力してくれた。ただ造りものになるので逆に弱った。彼等の目を盗んで本当の盗み撮りをやった。

 寛永寺裏の墓地には男娼がたむろし、不忍の池の端には一段高い見張り台の男の四囲に、七、八人の夜の女性がごろごろ昼寝していた。流石にこの人達にはカメラは向けられなかった。『野良犬』はこうしたまだまだ戦争の傷跡の生々しい時代を活写した貴重な名作である。演技陣の充実も見物だ。私に取っても思い出のつきない作品である。

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