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biography

本多 猪四郎 (ほんだ いしろう) Ishiro Honda
1911.5.7(明治44)〜1993.2.28(平成5)

山形県出身。1933(s8)日大芸術学部卒。その前年の'32pcl(のち東宝)に助監督として入社。
戦時中は軍隊生活。復員して、'51「青い真珠」で劇映画初監督。特殊撮影に関心をもち、特技監督円谷英二(府中カトリック墓地)と組んで'54「コジラ」、'57「地球防衛軍」、'61「モスラ」、'65「怪獣大戦争」などを監督して怪獣映画ブームの立役者となり、海外でも知られた。
黒澤明監督とは助監督時代からの親友で、「野良犬」では助監督をつとめ、「影武者」では監督部チーフ、「乱」「夢」「まあだだよ」等では演出補佐の肩書きで黒澤監督を助けた。
享年81。

 
●本多猪四郎略年譜
【2006.5.7改訂3版】
【2007.5.7改訂4版】
〜20代(〜1930年代) 30代(1940年代) 40代(1950年代) 50代(1960年代)
60代(1970年代) 70代(1980年代) 80代(1990年代)  
1911年
(明治44年)
5月7日、山形県東田川郡朝日村大綱(七五三掛=しめかけ)にて、湯殿村住蓮寺の住職を務める父・芳寛、母・みよの間に末っ子として誕生。
三人の兄と姉一人がおり、亥生まれの四男ということから猪四郎と名づけられる。生家は代々僧職の家柄で、半農半業を営んでいた。
1921年
(大正10年)
10歳
小学三年生のとき、父が東京・高井戸にある医王寺の住職となり、一家揃って上京。高井戸小学校に転入する。その後、一家は神奈川県に引っ越し、攻玉社中学(現在の攻玉社学園)に進学。
小学・中学時代を通じて「少年倶楽部」「日本少年」「子供の科学」「科学画報」などの雑誌に親しむ一方、小学校の巡回上映会で初めて映画と出会い衝撃を受ける。
以後は当時流行の連続活劇を中心に、内外の様々な映画を鑑賞。特に徳川無声が弁士を務めたエミール・ヤニングス主演、F.W.ムルナウ監督の「最後の人」(1926)には強い感銘を受けた。
1931年
昭和6年)
20歳
攻玉社中学卒業。
第八芸術≠ニ呼ばれた映画の可能性に憧れ、新設されたばかりの日本大学芸術科映画科の第一回入学生となる。
1932年
(昭和7年)
21歳
東宝の前進となるP.C.L(写真化学研究所)が発足。映画製作を開始する。
1933年
(昭和8年)
22歳
日大映画科の講師でもあったP.C.L支配人・森岩雄に招かれ、人材育成を目的とした映画青年の集まりに参加。谷口千吉、亀井文夫らとともに森の薫陶を受ける。
日大卒業前の8月、森に誘われる形で会のメンバーと共にP.C.L映画製作所に入社。製作部演出課に所属し、助監督として最初に木村荘十二監督「只野凡児人生勉強」につく。
1934年
(昭和9年)
23歳
徴兵検査で甲種合格。
「エノケンの青春酔虎伝」で以後師事することになる山本嘉次郎監督と出会い、その他、サード、セカンド助監督として矢倉茂雄監督「絹の泥靴」、成瀬巳喜男監督「乙女ごころ三人姉妹」につく。
1935年
(昭和10年)
24歳
1月、歩兵第一連隊=陸軍第二師団第一連隊第五中隊に入隊。
1936年
(昭和11年)
25歳
2月、青年将校らの決起によるクーデター未遂事件、いわゆる2.26事件に遭遇。
5月、満州に派遣される。なお、この年P.C.Lを母体に東宝映画が誕生した。
1937年
(昭和12年)
26歳
3月、除隊。撮影所に復帰し、山本嘉次郎「良人の貞操」に参加。同作の助監督仲間で、終生の友となる黒澤明と出会う。
引き続き同監督「エノケンのちゃっきり金太(前・後編)」にセカンド、山中貞雄監督「人情紙風船」に応援として参加。ほかに山本嘉次郎「美しき鷹」、成瀬巳喜男「雪崩」につく。
1938年
(昭和13年)
27歳
滝沢英輔監督「地熱」(チーフ=黒澤、セカンド=本多)、伊丹万作監督「巨人伝」、山本嘉次郎「藤十郎の恋」、成瀬巳喜男「鶴八鶴次郎」を経て、佐藤武監督「チョコレートと兵隊」でチーフ助監督に昇進。
1939年
(昭和14年)
28歳
3月、スクリプターをしていた、きみ夫人と結婚。
佐藤武「沙羅乙女」、小国英雄監督「ロッパ歌の都へ行く」、山本嘉次郎「エノケンのざんぎり金太」につき、同じく山本監督「馬」を撮影中の12月、第1回応召。
再び中国大陸に出征し、完成した「馬」を戦地で観ることとなった。
1940年
(昭和15年)
29歳
長女・孝子誕生。
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1941年
(昭和17年)
31歳
東宝映画産報会報(昭和18年1月)に「戦地だより」を寄せる。
12月、除隊。
1943年
( 昭和18年)
32歳
現場に復帰。山本嘉次郎「加藤隼戦闘隊」のチーフ助監督を務める。撮影は翌年3月まで続いた。
この年、東宝株式会社発足。
1944年
(昭和19年)
33歳
3月、「加藤隼戦闘隊」の完成と同時に2回目の応召。
長男・隆司誕生。
1945年
(昭和20年)
34歳
8月、中国の揚子江岸、江漢で終戦を迎える。
1946
(昭和21年)
35歳
3月、約半年間の捕虜生活を終えて復員。
第一次東宝争議の最中だった撮影所・助監督部に復帰する。
小田基義監督「十一人の女学生」(一部)、渡辺邦男監督「愛の宣言」につく。
1947年
(昭和22年)
36歳
今井正・関川秀雄・楠田清共同監督による「地下街二十四時間」、山本嘉次郎「エノケン・ロッパの新馬鹿時代(前・後編)」、同「春の饗宴」につく。
1949年
(昭和24年)
38歳
山本嘉次郎「風の子」(映画芸術協会第一回作品)についたあと、記録映画「伊勢志摩」を演出。
続いて山本監督の「春の戯れ」につき、黒澤明監督「野良犬」の監督助手を務める。同作ではB班としてロケ撮影も担当し、雑踏を歩く三船敏郎の吹替(後ろ姿)を演じた。
1950年
(昭和25年)
39歳
文化映画「生活共同組合」を演出。
山本嘉次郎「脱獄」の演出補佐を務める。
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1951年
(昭和26年)
40歳
山本嘉次郎「悲歌(エレジー)」につき、8月、念願の企画「青い真珠」で監督デビューを果たす。
南日本新聞に随想「祖上の鯉」を発表。
「丸」9月号の座談会「映画の名人藝」に吉村公三郎、黒澤明、南部圭之助、森岩雄と共に出席。
1952年
(昭和27年)
41歳
第2作「南国の肌」
続いて田中友幸、円谷英二と出会うことになった第3作「港へ来た男」を監督。
「特信文化」に随筆「海の映画」を発表。
1953年
(昭和28年)
42歳
第4作「続・思春期」を監督。
続く第5作「太平洋の鷲」で本格的に円谷英二と組む。
「キネマ旬報」秋の特別号「アンケート形式による新人監督会議」に回答を寄せる。「映画ファン」12月号に「太平洋の鷲」の抱負として「勝算なき戦い」を発表。
1954年
(昭和29年)
43歳
第6作「さらばラバウル」
第7作「ゴジラ」を監督。
1955年
(昭和30年)
44歳
第8作「恋化粧」
第9作「おえんさん」
第10作「獣人雪男」を監督。
1956年
(昭和31年)
45歳
第11作「若い樹」
第12作「夜間中学」(大映)
第13作「東京の人さようなら」
第14作「空の大怪獣ラドン」(初のカラー作品)を監督。
1957年
(昭和32年)
46歳
第15作「この二人に幸あれ」
第16作「別れの茶摘歌」
第17作「わが胸に虹は消えず」(二部作)
第18作「別れの茶摘歌 お姉さんと呼んだ人」
第19作「地球防衛軍」(初のワイドスクリーン)を監督。
「週刊新潮」6月24日号主役の表情・河内桃子≠ノ「監督の言葉」を寄せる。
1958年
(昭和33年)
47歳
第20作「花嫁三重奏」
第21作「美女と液体人間」
第22作「大怪獣バラン」を監督。
10月「特集 丸・第九集 日本陸海軍戦史」(潮書房)の「アンケート わが軍隊生活の思い出」に回答を寄せる。
1959年
(昭和34年)
48歳
第23作「こだまは呼んでいる」
第24作「鉄腕投手 稲尾物語」
第25作「上役・下役・ご同役」
第26作「宇宙大戦争」を監督。
1960年
(昭和35年)
49歳
第27作「ガス人間第一号」を監督。
ソ連・フィンランド合作映画「魔法の水車 サンポ」の日本語版監修を務める(62年公開)。
6月8日付「東京新聞」夕刊に「サンポ」と次回作に予定されていた「今日もわれ大空にあり」に関する取材記事掲載。
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1961年
(昭和36年)
50歳
第28作「モスラ」
第29作「真紅の男」を監督。
「SFマガジン」12月号(早川書房)の座談会「映画/SFはSF/映画に何を期待できるか」に円谷英二、安部公房、佐野洋らと共に出席。
1962年
(昭和37年)
51歳
第30作「妖星ゴラス」
第31作「キングコング対ゴジラ」(東宝創立30周年記念映画)を監督。
日本語版監修を務めた「魔法の水車 サンポ」公開。同作のパンフレットに「「サンポ」その特殊撮影」を執筆。
1963年
(昭和38年)
52歳
第32作「マタンゴ」
第33作「海底軍艦」を監督。
1964年
(昭和39年)
53歳
第34作「モスラ対ゴジラ」
第35作「宇宙大怪獣ドゴラ」
第36作「三大怪獣 地球最大の決戦」を監督。
1965年
(昭和40年)
54歳
第37作「フランケンシュタイン対地底怪獣」(初の日米合作怪獣映画)
第38作「怪獣大戦争」を監督。
「東宝映画」2月号に「空想映画の楽しさ」を執筆。
1966年
(昭和41年)
55歳
第39作「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」
第40作「お嫁においで」を監督。
「映画芸術」4月号にエッセイ「慰安婦係軍曹の回想」を発表。
「東宝映画」6月号「映画の面白さは特撮もので!」にて水野久美と対談。
1967年
(昭和42年)
56歳
第41作「キングコングの逆襲」(東宝創立35周年記念映画)を監督。
TVドラマ「新婚さん」第10、14話を監督。
1968年
(昭和43年)
57歳
第42作「怪獣総進撃」を監督。
「東宝映画」7月号に随筆「未来人間をつくる」を発表。
1969年
(昭和44年)
58歳
第43作「緯度0大作戦」(日米合作)
第44作「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」を監督。
TVドラマ「夫よ男よ強くなれ」第5、12話を監督。
1970年
(昭和45年)
59歳
1月25日、円谷英二死去(享年69)。
第45作「ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣」を監督。
「宝苑」3月号に「故・円谷監督を悼む」、「文藝春秋」4月号に「特撮の魔術師・円谷おやじ」を発表。
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1971
(昭和46年)
60歳
TVシリーズ「帰ってきたウルトラマン」第1、2、7、9話、同「ミラーマン」第1、2話を監督。
1972
(昭和47年)
61歳
TVシリーズ「帰ってきたウルトラマン」第51話(最終回)、同「緊急指令10-4・10-10」第5、6、20、21話、同「サンダーマスク」第1、2、4、5、14、15話を監督。
3月、「ミラーマン」第1話が東宝チャンピオンまつりの1本として劇場公開される。
1973
(昭和48年)
62歳
TVシリーズ「流星人間ゾーン」第3、4、12、13、18、19、23、24話を監督。
円谷一編・著「円谷英二 日本映画界に残した遺産」(小学館)に「ゴジラの想い出」を寄稿。
1974
(昭和49年)
63歳
第46作「メカゴジラの逆襲」を監督。最後の監督作となった。
同作のパンフレットに「特撮映画のたのしさ」を執筆。
9月21日、山本嘉次郎死去(享年72)。
1978
( 昭和53年)
67歳
ムック「特撮映像の巨星 ゴジラ」(朝日ソノラマ・ファンタスティックコレクション)に「ゴジラの周辺」を寄稿。
1979
(昭和54年)
68歳
黒澤明監督の「影武者」に演出部チーフとして参加する(80年公開/クリス・マルケル監督のドキュメンタリー「AKードキュメント黒澤明」に撮影中の姿が収められている)。
監修を務めた研究書「大特撮」(コロッサス編、有文社)刊行。
「STARBOY エクストラNo.1」(笠倉出版社・ウィンクル6月増刊)の特集「日本SF映画大集合」にインタビュー「本多猪四郎監督 我が作品を語る。」掲載。
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1981
(昭和56年)
70歳
8月15日、東京・中野で開かれたアマチュア主催の「第1回特撮大会」に招かれ、平田昭彦とともにトークショーに出演。
1982
(昭和57年)
71歳
8月21日、前年に引き続き「第2回特撮大会」に招かれ、自主映画コンテストの審査員・プレゼンターを務める。
1983
(昭和58年)
72歳
「東宝特撮全史」(東宝株式会社出版事業室)に「私と特撮映画」を寄稿。
8月5日、日比谷公会堂で行われたコンサート「伊福部昭:SF特撮映画音楽の夕べ」のプログラムに「伊福部音楽≠フ想い出」を寄稿。
1984
(昭和59年)
73歳
黒澤明「乱」の演出補佐を務める(85年公開)。
1月から9月にかけて発売されたビデオ「東宝怪獣・SF大百科」全11巻(東宝ビデオ)の構成・演出を担当。
「宇宙船」18号〜22号(朝日ソノラマ)に、酒井敏夫によるロング・インタビュー「特撮をめぐる人々・本多猪四郎」が連載される。
12月、監修を務めた復刻資料集「ゴジラ・コレクション」(竹内博・編/国書刊行会)発売。
1985
(昭和60年)
74歳
翌年にかけて発売された「東宝SF特撮映画シリーズ」vol.2〜5(東宝株式会社出版事業室)に、鳴海丈ほかによるロング・インタビューが掲載される。
1986
(昭和61年)
75歳
大林宣彦監督の「漂流教室」に特別出演(クレジットなし)。
○月に発売されたビデオ「特撮未使用フィルム大全集」(東宝ビデオ)にインタビュー映像が収録される。
1988
(昭和63年)
77歳
大林宣彦「異人たちとの夏」にセリフのある役で特別出演。
12月刊行「全集黒澤明」(岩波書店)第二巻の月報に『青春カット・バック』を寄稿。
1989
(平成元年)
78歳
黒澤明「夢」の演出補佐を務める(90年公開/大林宣彦監督によるメイキングビデオ「メーキング・オブ・ドリームス 黒澤明・大林宣彦映画的対話」に撮影中の姿が収められている)。
開田裕治画集「怪獣戯画」(バンダイ)に「序文」を寄せる。
1990
(平成2年)
79歳
黒澤明「八月の狂詩曲(ラプソディ)」の演出補佐を務める(91年公開)。
札幌のミニコミ誌「ごもく映画通信」に、エッセイ「ムービー夜話」の不定期連載を開始(93年3月号の第8回で中絶)。
「ぴあCINEMA CLUB '90 邦画篇」にインタビュー記事掲載(取材・文=増当竜也)。
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1991
(平成3年)
80歳
「小説CLUB」3月号にエッセイ『味噌帳』を発表。
鳴海丈の小説「修羅之介斬魔劍」第4巻(角川書店)の巻末エッセイ『作品と資料』を執筆。
「キネマ旬報」6月上旬号『八月の狂詩曲 黒澤映画の魅力を語る』にて山田洋次と対談。
9月22日、佐賀県富士町の「古湯映画祭」に招かれ講演を行う。
「キネマ旬報」12月下旬号に「ゴジラを創った監督たちの時代〜本多猪四郎と大森一樹の対話」(古湯映画祭)掲載。
12月12日放送、テレビ朝日「トゥナイト」の「ゴジラVSキングギドラ」特集にVTR出演。
12月刊行のムック「東宝怪獣グラフィティー」(近代映画社・スクリーン特編版)にインタビューが掲載される。
1992
(平成4年)
81歳
黒澤明「まあだだよ」の演出補佐を務める(93年公開)。
「オール讀物」2月号『映画「ゴジラ」と私の青春』にて井上ひさしと対談。
「黒澤明研究会誌No.10」にインタビュー「怪獣映画と原子爆弾〜本多猪四郎監督を囲んで」掲載。
「週刊現代」7月25日号「人物ワイド・ニュースな男と女」に紹介記事掲載。
9月、樋口尚文による研究書「グッドモーニング、ゴジラ 監督本多猪四郎と撮影所の時代」(筑摩書房)が刊行される。

1993
(平成5年)
2月28日午後11時半、呼吸不全により永眠。享年81。
3月6日、世田谷区・成勝寺会館において無宗教による「お別れの会」が営まれた。
なお、1月刊行の「東宝SF特撮映画シリーズvol.7 ゴジラvsモスラ」に、生前最後のインタビューが収録されている。

3月11日、テレビ朝日「M10」で追悼番組を放送。
「週刊文春」3月18日号に追悼記事「さらばゴジラの父 本多猪四郎」掲載。
「週刊プレイボーイ」3月23日号に「追悼・本多猪四郎監督 ありがとう、"ゴジラ"は永遠に不滅です!」掲載。
「キネマ旬報」4月下旬号に追悼記事掲載(文=小林淳)。
4月17日、最後の仕事となった「まあだだよ」公開。
5月、LD「野良犬」発売。解説書に寄せた「「野良犬」の思い出」が遺稿となった。
5月10日発売「月刊ニュータイプ」6月号に追悼記事掲載(文=中島紳介)。
7月17日、写真のみの出演となった大林宣彦監督「水の旅人 侍KIDS」公開。
10月、テレビ朝日系「驚きももの木20世紀〜ゴジラの誕生」放送。
12月刊行の「東宝SF特撮映画シリーズvol.8 ゴジラvsメカゴジラ」が中野昭慶、梶田興治の追悼文を掲載。おなじく「ゴジラ大百科 メカゴジラ編」(学研)では、本人の未公開ロング・インタビューを中心に追悼企画が組まれた。
1994
(平成6年)
8月、東京・三軒茶屋のAMS西武にあったスタジオAMS≠ノて、一般映画のみを集めた特集上映「検証!日本の映画監督たちvol.17 本多猪四郎特集」PART1〜3が開かれた。
12月、生前のインタビューをまとめた「本多猪四郎「ゴジラ」とわが映画人生」(実業之日本社)が刊行される。
1998
(平成10年)
9月6日、黒澤明死去(享年88)。
2000
(平成12年)
5月、竹内博・編による写真集「本多猪四郎全仕事」(朝日ソノラマ)刊行。
2001
(平成13年)
CDボックス「東宝特撮チャンピオンまつり」(バップ)の解説ブックレットに、1987年東京現像所(現イマジカ)の上映会で行われた講演「ゴジラ誕生前夜」が採録される。
11月発売「週刊少年マガジン」52号、および12月5日発売の2002年1号に安宅一也・作「ゴジラを創った男達 本多猪四郎物語」前・後編が掲載される。
2006
(平成18年)
11月刊行「映画をたずねてー井上ひさし対談集」(ちくま文庫)に92年の対談が収録される。
2007
(平成19年)
2月、公式サイト「ishirohonda.com」開設。
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