1911年 (明治44年) |
5月7日、山形県東田川郡朝日村大綱(七五三掛=しめかけ)にて、湯殿村住蓮寺の住職を務める父・芳寛、母・みよの間に末っ子として誕生。
三人の兄と姉一人がおり、亥生まれの四男ということから猪四郎と名づけられる。生家は代々僧職の家柄で、半農半業を営んでいた。 |
1921年 (大正10年) 10歳 |
小学三年生のとき、父が東京・高井戸にある医王寺の住職となり、一家揃って上京。高井戸小学校に転入する。その後、一家は神奈川県に引っ越し、攻玉社中学(現在の攻玉社学園)に進学。
小学・中学時代を通じて「少年倶楽部」「日本少年」「子供の科学」「科学画報」などの雑誌に親しむ一方、小学校の巡回上映会で初めて映画と出会い衝撃を受ける。
以後は当時流行の連続活劇を中心に、内外の様々な映画を鑑賞。特に徳川無声が弁士を務めたエミール・ヤニングス主演、F.W.ムルナウ監督の「最後の人」(1926)には強い感銘を受けた。 |
1931年 昭和6年) 20歳 |
攻玉社中学卒業。 第八芸術≠ニ呼ばれた映画の可能性に憧れ、新設されたばかりの日本大学芸術科映画科の第一回入学生となる。 |
1932年 (昭和7年) 21歳 |
東宝の前進となるP.C.L(写真化学研究所)が発足。映画製作を開始する。 |
1933年 (昭和8年) 22歳 |
日大映画科の講師でもあったP.C.L支配人・森岩雄に招かれ、人材育成を目的とした映画青年の集まりに参加。谷口千吉、亀井文夫らとともに森の薫陶を受ける。
日大卒業前の8月、森に誘われる形で会のメンバーと共にP.C.L映画製作所に入社。製作部演出課に所属し、助監督として最初に木村荘十二監督「只野凡児人生勉強」につく。 |
1934年 (昭和9年) 23歳 |
徴兵検査で甲種合格。
「エノケンの青春酔虎伝」で以後師事することになる山本嘉次郎監督と出会い、その他、サード、セカンド助監督として矢倉茂雄監督「絹の泥靴」、成瀬巳喜男監督「乙女ごころ三人姉妹」につく。 |
1935年 (昭和10年) 24歳 |
1月、歩兵第一連隊=陸軍第二師団第一連隊第五中隊に入隊。 |
1936年 (昭和11年) 25歳 |
2月、青年将校らの決起によるクーデター未遂事件、いわゆる2.26事件に遭遇。
5月、満州に派遣される。なお、この年P.C.Lを母体に東宝映画が誕生した。 |
1937年 (昭和12年) 26歳 |
3月、除隊。撮影所に復帰し、山本嘉次郎「良人の貞操」に参加。同作の助監督仲間で、終生の友となる黒澤明と出会う。
引き続き同監督「エノケンのちゃっきり金太(前・後編)」にセカンド、山中貞雄監督「人情紙風船」に応援として参加。ほかに山本嘉次郎「美しき鷹」、成瀬巳喜男「雪崩」につく。 |
1938年 (昭和13年) 27歳 |
滝沢英輔監督「地熱」(チーフ=黒澤、セカンド=本多)、伊丹万作監督「巨人伝」、山本嘉次郎「藤十郎の恋」、成瀬巳喜男「鶴八鶴次郎」を経て、佐藤武監督「チョコレートと兵隊」でチーフ助監督に昇進。 |
1939年 (昭和14年) 28歳 |
3月、スクリプターをしていた、きみ夫人と結婚。
佐藤武「沙羅乙女」、小国英雄監督「ロッパ歌の都へ行く」、山本嘉次郎「エノケンのざんぎり金太」につき、同じく山本監督「馬」を撮影中の12月、第1回応召。
再び中国大陸に出征し、完成した「馬」を戦地で観ることとなった。 |
1940年 (昭和15年) 29歳 |
長女・孝子誕生。 |
1951年 (昭和26年) 40歳 |
山本嘉次郎「悲歌(エレジー)」につき、8月、念願の企画「青い真珠」で監督デビューを果たす。 南日本新聞に随想「祖上の鯉」を発表。
「丸」9月号の座談会「映画の名人藝」に吉村公三郎、黒澤明、南部圭之助、森岩雄と共に出席。 |
1952年 (昭和27年) 41歳 |
第2作「南国の肌」 続いて田中友幸、円谷英二と出会うことになった第3作「港へ来た男」を監督。 「特信文化」に随筆「海の映画」を発表。 |
1953年 (昭和28年) 42歳 |
第4作「続・思春期」を監督。
続く第5作「太平洋の鷲」で本格的に円谷英二と組む。
「キネマ旬報」秋の特別号「アンケート形式による新人監督会議」に回答を寄せる。「映画ファン」12月号に「太平洋の鷲」の抱負として「勝算なき戦い」を発表。 |
1954年 (昭和29年) 43歳 |
第6作「さらばラバウル」 第7作「ゴジラ」を監督。 |
1955年 (昭和30年) 44歳 |
第8作「恋化粧」 第9作「おえんさん」 第10作「獣人雪男」を監督。 |
1956年 (昭和31年) 45歳 |
第11作「若い樹」
第12作「夜間中学」(大映)
第13作「東京の人さようなら」
第14作「空の大怪獣ラドン」(初のカラー作品)を監督。 |
1957年 (昭和32年) 46歳 |
第15作「この二人に幸あれ」
第16作「別れの茶摘歌」
第17作「わが胸に虹は消えず」(二部作)
第18作「別れの茶摘歌 お姉さんと呼んだ人」
第19作「地球防衛軍」(初のワイドスクリーン)を監督。
「週刊新潮」6月24日号主役の表情・河内桃子≠ノ「監督の言葉」を寄せる。 |
1958年 (昭和33年) 47歳 |
第20作「花嫁三重奏」 第21作「美女と液体人間」
第22作「大怪獣バラン」を監督。
10月「特集 丸・第九集 日本陸海軍戦史」(潮書房)の「アンケート わが軍隊生活の思い出」に回答を寄せる。 |
1959年 (昭和34年) 48歳 |
第23作「こだまは呼んでいる」
第24作「鉄腕投手 稲尾物語」
第25作「上役・下役・ご同役」
第26作「宇宙大戦争」を監督。 |
1960年 (昭和35年) 49歳 |
第27作「ガス人間第一号」を監督。
ソ連・フィンランド合作映画「魔法の水車 サンポ」の日本語版監修を務める(62年公開)。
6月8日付「東京新聞」夕刊に「サンポ」と次回作に予定されていた「今日もわれ大空にあり」に関する取材記事掲載。 |
1961年 (昭和36年) 50歳 |
第28作「モスラ」
第29作「真紅の男」を監督。
「SFマガジン」12月号(早川書房)の座談会「映画/SFはSF/映画に何を期待できるか」に円谷英二、安部公房、佐野洋らと共に出席。 |
1962年 (昭和37年) 51歳 |
第30作「妖星ゴラス」
第31作「キングコング対ゴジラ」(東宝創立30周年記念映画)を監督。
日本語版監修を務めた「魔法の水車 サンポ」公開。同作のパンフレットに「「サンポ」その特殊撮影」を執筆。 |
1963年 (昭和38年) 52歳 |
第32作「マタンゴ」 第33作「海底軍艦」を監督。 |
1964年 (昭和39年) 53歳 |
第34作「モスラ対ゴジラ」
第35作「宇宙大怪獣ドゴラ」
第36作「三大怪獣 地球最大の決戦」を監督。 |
1965年 (昭和40年) 54歳 |
第37作「フランケンシュタイン対地底怪獣」(初の日米合作怪獣映画)
第38作「怪獣大戦争」を監督。
「東宝映画」2月号に「空想映画の楽しさ」を執筆。 |
1966年 (昭和41年) 55歳 |
第39作「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」
第40作「お嫁においで」を監督。
「映画芸術」4月号にエッセイ「慰安婦係軍曹の回想」を発表。
「東宝映画」6月号「映画の面白さは特撮もので!」にて水野久美と対談。 |
1967年 (昭和42年) 56歳 |
第41作「キングコングの逆襲」(東宝創立35周年記念映画)を監督。
TVドラマ「新婚さん」第10、14話を監督。 |
1968年 (昭和43年) 57歳 |
第42作「怪獣総進撃」を監督。
「東宝映画」7月号に随筆「未来人間をつくる」を発表。 |
1969年 (昭和44年) 58歳 |
第43作「緯度0大作戦」(日米合作)
第44作「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」を監督。
TVドラマ「夫よ男よ強くなれ」第5、12話を監督。 |
1970年 (昭和45年) 59歳 |
1月25日、円谷英二死去(享年69)。
第45作「ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣」を監督。
「宝苑」3月号に「故・円谷監督を悼む」、「文藝春秋」4月号に「特撮の魔術師・円谷おやじ」を発表。 |
1981 (昭和56年) 70歳 |
8月15日、東京・中野で開かれたアマチュア主催の「第1回特撮大会」に招かれ、平田昭彦とともにトークショーに出演。 |
1982 (昭和57年) 71歳 |
8月21日、前年に引き続き「第2回特撮大会」に招かれ、自主映画コンテストの審査員・プレゼンターを務める。 |
1983 (昭和58年) 72歳 |
「東宝特撮全史」(東宝株式会社出版事業室)に「私と特撮映画」を寄稿。
8月5日、日比谷公会堂で行われたコンサート「伊福部昭:SF特撮映画音楽の夕べ」のプログラムに「伊福部音楽≠フ想い出」を寄稿。 |
1984 (昭和59年) 73歳 |
黒澤明「乱」の演出補佐を務める(85年公開)。
1月から9月にかけて発売されたビデオ「東宝怪獣・SF大百科」全11巻(東宝ビデオ)の構成・演出を担当。
「宇宙船」18号〜22号(朝日ソノラマ)に、酒井敏夫によるロング・インタビュー「特撮をめぐる人々・本多猪四郎」が連載される。 12月、監修を務めた復刻資料集「ゴジラ・コレクション」(竹内博・編/国書刊行会)発売。 |
1985 (昭和60年) 74歳 |
翌年にかけて発売された「東宝SF特撮映画シリーズ」vol.2〜5(東宝株式会社出版事業室)に、鳴海丈ほかによるロング・インタビューが掲載される。 |
1986 (昭和61年) 75歳 |
大林宣彦監督の「漂流教室」に特別出演(クレジットなし)。
○月に発売されたビデオ「特撮未使用フィルム大全集」(東宝ビデオ)にインタビュー映像が収録される。 |
1988 (昭和63年) 77歳 |
大林宣彦「異人たちとの夏」にセリフのある役で特別出演。
12月刊行「全集黒澤明」(岩波書店)第二巻の月報に『青春カット・バック』を寄稿。 |
1989 (平成元年) 78歳 |
黒澤明「夢」の演出補佐を務める(90年公開/大林宣彦監督によるメイキングビデオ「メーキング・オブ・ドリームス 黒澤明・大林宣彦映画的対話」に撮影中の姿が収められている)。
開田裕治画集「怪獣戯画」(バンダイ)に「序文」を寄せる。 |
1990 (平成2年) 79歳 |
黒澤明「八月の狂詩曲(ラプソディ)」の演出補佐を務める(91年公開)。
札幌のミニコミ誌「ごもく映画通信」に、エッセイ「ムービー夜話」の不定期連載を開始(93年3月号の第8回で中絶)。
「ぴあCINEMA CLUB '90 邦画篇」にインタビュー記事掲載(取材・文=増当竜也)。 |
1991 (平成3年) 80歳 |
「小説CLUB」3月号にエッセイ『味噌帳』を発表。
鳴海丈の小説「修羅之介斬魔劍」第4巻(角川書店)の巻末エッセイ『作品と資料』を執筆。
「キネマ旬報」6月上旬号『八月の狂詩曲 黒澤映画の魅力を語る』にて山田洋次と対談。
9月22日、佐賀県富士町の「古湯映画祭」に招かれ講演を行う。
「キネマ旬報」12月下旬号に「ゴジラを創った監督たちの時代〜本多猪四郎と大森一樹の対話」(古湯映画祭)掲載。
12月12日放送、テレビ朝日「トゥナイト」の「ゴジラVSキングギドラ」特集にVTR出演。
12月刊行のムック「東宝怪獣グラフィティー」(近代映画社・スクリーン特編版)にインタビューが掲載される。
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1992 (平成4年) 81歳 |
黒澤明「まあだだよ」の演出補佐を務める(93年公開)。
「オール讀物」2月号『映画「ゴジラ」と私の青春』にて井上ひさしと対談。
「黒澤明研究会誌No.10」にインタビュー「怪獣映画と原子爆弾〜本多猪四郎監督を囲んで」掲載。
「週刊現代」7月25日号「人物ワイド・ニュースな男と女」に紹介記事掲載。
9月、樋口尚文による研究書「グッドモーニング、ゴジラ 監督本多猪四郎と撮影所の時代」(筑摩書房)が刊行される。
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1993 (平成5年) |
2月28日午後11時半、呼吸不全により永眠。享年81。
3月6日、世田谷区・成勝寺会館において無宗教による「お別れの会」が営まれた。
なお、1月刊行の「東宝SF特撮映画シリーズvol.7 ゴジラvsモスラ」に、生前最後のインタビューが収録されている。
3月11日、テレビ朝日「M10」で追悼番組を放送。
「週刊文春」3月18日号に追悼記事「さらばゴジラの父 本多猪四郎」掲載。
「週刊プレイボーイ」3月23日号に「追悼・本多猪四郎監督 ありがとう、"ゴジラ"は永遠に不滅です!」掲載。
「キネマ旬報」4月下旬号に追悼記事掲載(文=小林淳)。
4月17日、最後の仕事となった「まあだだよ」公開。
5月、LD「野良犬」発売。解説書に寄せた「「野良犬」の思い出」が遺稿となった。
5月10日発売「月刊ニュータイプ」6月号に追悼記事掲載(文=中島紳介)。
7月17日、写真のみの出演となった大林宣彦監督「水の旅人 侍KIDS」公開。
10月、テレビ朝日系「驚きももの木20世紀〜ゴジラの誕生」放送。
12月刊行の「東宝SF特撮映画シリーズvol.8 ゴジラvsメカゴジラ」が中野昭慶、梶田興治の追悼文を掲載。おなじく「ゴジラ大百科 メカゴジラ編」(学研)では、本人の未公開ロング・インタビューを中心に追悼企画が組まれた。 |
1994 (平成6年) |
8月、東京・三軒茶屋のAMS西武にあったスタジオAMS≠ノて、一般映画のみを集めた特集上映「検証!日本の映画監督たちvol.17 本多猪四郎特集」PART1〜3が開かれた。
12月、生前のインタビューをまとめた「本多猪四郎「ゴジラ」とわが映画人生」(実業之日本社)が刊行される。 |
1998 (平成10年) |
9月6日、黒澤明死去(享年88)。 |
2000 (平成12年) |
5月、竹内博・編による写真集「本多猪四郎全仕事」(朝日ソノラマ)刊行。 |
2001 (平成13年) |
CDボックス「東宝特撮チャンピオンまつり」(バップ)の解説ブックレットに、1987年東京現像所(現イマジカ)の上映会で行われた講演「ゴジラ誕生前夜」が採録される。
11月発売「週刊少年マガジン」52号、および12月5日発売の2002年1号に安宅一也・作「ゴジラを創った男達 本多猪四郎物語」前・後編が掲載される。 |
2006 (平成18年) |
11月刊行「映画をたずねてー井上ひさし対談集」(ちくま文庫)に92年の対談が収録される。 |
2007 (平成19年) |
2月、公式サイト「ishirohonda.com」開設。 |